東大寺ではかつて、修行の一環として「お風呂の時間」が設けられていた
仰天! 入浴の日本史① 町湯のルーツは寺の「功徳湯」
1300年以上の歴史を持つ日本の「お風呂」。それを紐解いた時に見えてくる日本独特の文化とは? 雑誌『一個人』2月号の特集「仰天! 入浴の日本史」より、古代まで遡ってお風呂のルーツを探る。
庶民の健康増進を図りつつ忠誠心も育んだ功徳湯
日本人は風呂好き民族といわれている。その入浴という習慣は、一体いつ頃から定着したのであろうか。日本は古来、多くの温泉が名を連ねるほどのいで湯天国だ。古代の人たちも、コンコンと湧き出る湯を発見し、それに入ったと考えるのが自然だろう。
実際、地方の歴史や文物を記録した地誌である「風土記」には、人々が温泉に入浴したという記述が見られる。天平5年(733)成立の『出雲国風土記(いずものくにふどき)』には、このような記述がある。「川のほとりに温泉がある。(略)男も女も老人も子どもも(略)毎日毎日集まるので市が立つほどであり、歌い乱れて酒宴をひらく。ひとたび湯を浴びればただちに端正な美しい体になり、再び湯あみすればどんな病気もすっかり治る」。これは島根県松江市にある玉造(たまつくり)温泉のことといわれている。
ここではいかにも温泉が賑わっていたことや、温泉に浸ることによる効能まで記されている。温泉で湯を浴びることは「沐(ゆあみ)」と呼ばれていた。川や池、海などでの水浴びは「川浴(かわあ)み」と呼んで区別されている。『出雲国風土記』には川浴みの記録もある。
こうした自然発生的な入浴スタイルに変化をもたらしたのが、6世紀に渡来した仏教である。この新しい教えは、聖徳太子が積極的に取り入れたことで急速に広まった。
そして持統(じとう)天皇3年(689)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が完成・施行されると、国民の日常生活は朝廷により支配されつつ、精神面の訓示や教育に関しては寺院が受け持つという構造が出来上がった。そのため東大寺や法隆寺(ほうりゅうじ) 、大安寺といった国家寺院がその任に就いている。中でも東大寺は中心的な存在とされ、有名な大仏が作られ、国家の
シンボルとなった。
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